岩道 博という男Ⅳ レース請負人
70年を跨ぐ数年は岩道青年にとってもKAWASAKIにとっても大きく動いた数年間であった。
少し話はややこしくなるが当時のKAWASAKIのワークス体制はカワサキコンバットというモトクロスチームが神奈川を本拠に置かれ「日本一速い男・星野一義」さん等を輩出された名門であり、一方ロードは六甲伝説で有名な「関西の怪童」片山義美氏が主宰された神戸の「木の実レーシング」が契約チームとしてライダーを擁していた。ほどなく岡山にも木の実レーシング岡山支部が発足し、スズキで世界を転戦し引退後はHRCの監督を務められた増田耕二氏も当時は木の実岡山所属でKAWASAKIを駆っておられた。
ちょうど星野一義氏が木の実レーシングに移籍された頃で地方戦のメンテナンスなど岡山市田町の岡山支社を利用していたことから岩道青年も交流がはじまり星野氏の当時の愛車プリンススカイライン(54系)で明石と岡山を行ったり来たりしたことや「その頃から車の運転も上手かった」と想い出を聞かせていただいた。星野氏におかれては69年に4輪に転向されてからは疎遠となっていたが84年頃に富士スピードウェイのパドックでばったり再会、日本一の男は当時と変わらぬ気さくさで互いに当時を懐かしんだそうだ。
1971年には岡山の東に中山サーキットがオープン、JAF公認のサーキットとしては鈴鹿サーキット、富士スピードウェイ、筑波サーキットに続く日本で4番目に古いサーキットであり、手ごろなサーキットとして現在も隣県からの来場も多く賑わっている。全国にMFJ公認クラブが一気に増えた時期でもあり全国的にオートバイレースの興隆期であった。
当時まだテストコースを持たないKAWASAKIは明石からさほど遠くなく市内に支社もあることから中山サーキットでのテスト行うことが増えた。同じ頃、岩道青年は地元のチームに所属しておりレースの主催者としても頻繁に中山に出入りしており、暇があれば自分でチューニングを施したマシンに跨りテストとライディングの研鑚に励んでいたが、ほどなく「素人にしては速いヤツがいる。どうも岡山の販売店の店主だそうだ」とKAWASAKI陣営の噂となり、それを聞きつけた岡山営業所長の取持ちもあり岡山でのテストの際はライダーとして、時にはメカニックとして交流を深めた。全日本にも一部KAWASAKIのサポートを受けながら90ccを皮切りに自費参戦し71年には鈴鹿のコースレコードを樹立、着々と昇格し、ついに74年にはエキスパートジュニア125ccクラスでチャンピオンとなる。
時は各二輪メーカーの排気量競争とも言える時代で、話題はどうしてもトップカテゴリの750ccクラスに注目が集まっていたが、MFJ機関紙のインタビューでは競技参加者の裾野を広げるべく小排気量クラスの重要性をメッセージとして残されている。
KAWASAKIとの蜜月が過ぎ販売代理店としてもライダーとしても円熟期を迎えた頃、
16歳の頃から夢見た檜舞台に立つチケットを手に入れることとなる。
初の国際規格レース出場のチケットであった。
最終章へ続く
画像提供;岩道 博 氏