74年のチャンピオン獲得からレースへの熱はさらに増し、バイクショップの店主とレーサーの二足の草鞋は履いたままに、速さへの執念は高まった。
75年には第三子が誕生し一家の大黒柱として草鞋の重さは変わりつつも、結婚と同時に辞めるはずだったレースが続けられたのはひとえに夫人の内助の功に他ならなかったが、
78年ついに国際規格レース出場のチケットを手に入れた。「第1回インターナショナル鈴鹿8時間耐久オートバイレース」現在日本で最も有名なオートバイのレースSUZUKA8耐に開発テストにも携わったZ650をベースに耐久仕様のZ改で徳野政樹氏とエンデュランスを戦い、虎視眈々という表現が相応しい走りと戦略で見事クラス1位/総合5位の快挙を成し遂げたのだ。


画像提供:岩道  博氏 この勝利は筆者の個人的な妄想(笑)ではあるが、Z系常勝の牙城を覆し無敵艦隊と呼ばれたホンダRCBを打倒するべくKR1000開発の契機に一役買ったのではないかと思っている。

80年代に入り肉体的にはまだまだ走れたが家族という存在は大きく、今まではレースとなると4~5日は奥様とも音信普通で没頭したが、末っ子も育ち遠征中には一日の終わりに自宅に電話をするようになった頃から、コースに出てもう一つ奥のブレーキングポイントを軌条しようとすると「見えない神様か魔物か得体の知れない何か」が現れはじめた。いつしかの電話で「お土産買って帰るからな」と受話器置いた時「いつまでも続けてたらいけんな」と自らのレギュレーションを敷き直し、主に後進のサポートと育成に重きを置きながら全日本には88年までエントリーし、42歳の厄年に鈴鹿の神様に厄落としのラストランのチェッカーを受け選手としての一区切りを付けた。


ご本人のライセンス MFJは30番台、中山サーキットの会員証は何と1番、MCFAJはカワサキの関係から関西のクラブ所属で登録

同じ頃、個人事業のオカザキスピードはオーエス技研として改組法人化され、当時の岡﨑氏は「うちはパーツ屋じゃねぇ、エンジン屋だ』とパーツメーカーと呼ばれることを嫌っていたそうだが、既にハードチューニングの界隈では「壊れないパーツメーカー」として浸透しており、ことクラッチにおいては連日深夜まで製造を行わないと出荷が間に合わず、岡﨑氏自らも工場に出向き組立工程に加勢する日々が数年間続いた。業績と設備の拡大と共に人員も順調に増え現在の要職を務める何森・山縣・佐藤等が入社したのもこの頃である。

経営が安定すると、常に現状に甘んじず進化を求める岡﨑氏は94年に起業のルーツでもある二輪で、善き時代のヨーロッパレーサーを中心としたチューニングパーツブランドの立ち上げを計画

「オートバイやるから、岩道お前も来い」と、本業があるのはそっちのけでまたもや白羽の矢が立つ出来事が起こったのであった。

株式会社カンリンの誕生である。
例のごとくKANRINブランドも岡﨑氏が率いるモノづくり集団、売れる物ではなく造りたいもの・求める性能から辿り着く機能美を持つ製品を造るブランドであり、当時を知るエンスージアスト達から再販を希望する声が高いレーシングブレーキドラムの熟練の職人が削り出すフィンの秀逸さは工芸品レベルの仕上がりであるが、放熱効果が優先されたうえでの副産物であり、重量を最適化したフライホイールを納める為のカバー、乾式クラッチの構成のそれにあっても求める性能が形となっただけで意味の無いカッコよさとは無縁のブランドであった。
今のオーエス技研にも踏襲されている岡﨑氏の理念に「広告と営業は製品がしてくれる」「広告・販促で売れたモノは広告を続けないと売れ行きが鈍る」であり、大手自動車メーカーとのやり取りであっても決して「買ってください」ではなく「良いと思われたら使ってください」という姿勢はエンドユーザーに対しても同じで、忖度の無い公平さは私達のような凡俗の徒には真似のできない自社製品へのポリシーをお持ちである。

‘96年第20回タイムトンネル筑波GPクラスにて59 BSA GOLDSTARにてポール トゥ ウイン 記念来日されたレジェンドライダー‘‘The Big Jhon”ジョン サーティース氏を・・・

そのアサインも岩道氏本人は立ち上げの1~2年手伝えばいいだろうと軽く考えていたのだが・・・
2023年現在も毎日オーエス技研で「図面があると作れない技術(笑)」の伝承にご尽力をいただいている。

当時を振り返り、買った方が安くてすぐ手に入る部品や工具・製作治具なども「造れ!」「こうしてこうしたら作れるじゃろ!」とさすがの岩道氏も「わざわざ作らなくても・・・」と思うような物を作ったり、そこまでしなくてもと思うような加工を岡﨑氏に求められたそうだが、今考えてみると面倒なプロセスを経てやってみることで、頭と計算で考える製図だけでは生まれないデザインや工夫をする考え方が身に付くことを岡﨑氏は分かっていて、経営側面では非効率な行いではあるが「ただ指示されただけの物を作る人材は無用」文句でも苦言でも自分か考え付かない事を提案してくるような人材を今で云う”むちゃぶり”で育成されていたのだ。「無茶もよぉいわれたけど、そのおかげで今のワシがあるんじゃけどな」と少し照れながら目を細められた。

TC24搭載のデモカー製作中の岡﨑氏と岩道氏 2013年          画像提供:オーエス技研

「昔、俺ははこうだった」と過去の栄光にしがみつく先覚の諸兄はどの世界にも一定数いらっしゃるが、岩道氏におかれては遠くは50年以上前を振り返っても「あの時は誰某さんにはお世話になった」「ようしてもろぉおた」と場面場面でご芳名を伺ったが、感謝とはするものではなく心の在り方で、その時(事)だけでなくずっと在り続けていることが本当の感謝であると、今日岩道氏が心豊かにお過ごしの様を拝見して気付かせていただいた。

競技と名の付くものにおいて勝敗は相手があって成り立つ事であるが、まずは自分と戦ってこられた方の言葉、立ち振る舞いには裏付けとも取れるような無言の説得力がある。

ストレートでキャノピーに身体を収め空気抵抗を減らしバイクと一体化するには「猫がジャンプする時の姿勢じゃ」と、跳ぶ前に縮まり縮む力と跳ぶ力がゼロの瞬間の事で非常に分かり易い、

たった4馬力のモペッドから時速300km/h越えの市販車が登場する半世紀以上を知る生き証人は難しい専門用語ではなく、いつも本質で教えてくださる。

                                               了

筆者からの取り調べに近いインタビューには快くお応え頂き、この場をお借りして改めて御礼を申し上げる次第で御座います。

                                                           GEARHUB編集部

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