岩道 博という男Ⅱ 岡﨑 正治との出会い
1962(昭和37)年16歳になった博少年は
トーハツ・ランペットを駆り、
既にスピードの虜となっていた。
当時はまだ珍しいライトスポーツモデル
ではあったが50ccでたった4馬力の
モペッド、必然的に自分のオートバイが
もっと速くならないかと毎日考えた。
当時ホンダの二輪店舗に就職し16歳ながら
保証担当に配属され地域の販売代理店との
関わりも多数あったが、岡山のバイク乗り
(当時はそのほとんどが暴走族と呼ばれてい
たらしい・・・)の間では沖元のオカザキス
ピードに行けば速くしてくれるというのが
もっぱらの噂で、ホンダ二輪販売代理店で
あった岡﨑氏との出会いも今となれば必然
であった。
岩道氏曰く「オールバックにしてな
暴走族の親玉みたいなもんじゃった」と
九つ年上の岡﨑氏とは今でも歳の離れた
兄弟の様な独特の距離感が垣間見える。
【資料提供:株式会社オーエス技研】
当時メーカー保証が5万kmだったそうだが
なぜか、オカザキスピードから50000km
を目前にエンジンが焼き付いた車両の入庫
が多かったという証言が・・・
(それは、後日岡﨑氏に確認することとする)
話は変わるが、岡﨑氏との関わりから
17歳になった博少年はホンダに勤めながら
スズキK90の新車をオカザキスピードで
購入、新車価格72,000円だった。
納車後早速、流行していたスクランブラー
仕様に改造、ヘッドランプは自転車用の
小径に換装、充填管(本人ママ、チャンバー)
には木を詰めて充填効率を変化させたりし
楽しんだが、驚いたことにその原付2種で
鈴鹿の日本GPを見に行こうとしたのだ。
前年の1962年11月第一回全日本ロードレー
ス大会鈴鹿に地元岡山からも後藤文雄選手
、小園忠裕選手らが出場していたこともあ
り中国ホンダの采配でバスツアーが企画
され、ホンダ販売店勤めの功名から初め
て、国際規格のレース観戦をした。
世界で戦うジム・レッドマンや鈴鹿
のデグナーカーブの由来であるエルンスト
・デグナー選手の走りを目の当たりした
博少年は、無謀にも翌年のGPへ地元有志
の大排気量オートバイ達と開通間もない
名神高速を使って行こうと計画。
「知らぬが仏」とはこのことで、
原付が高速道路を走れないことも知らない
少年達。まさに日本版のスタンド・バイ・
ミー、浮谷東次郎のがむしゃら1500キロと
同じ事をやってしまおうとするガッツとバ
イタリティは、当時の多くの少年達がエン
ジンと車輪の付いた魔物のスピード・音・
匂いにやられてしまった社会現象ともいえ
る熱量と高度成長期の日本を動かすそれは
事を同じくしていたと思われる。
1963年初めての自走鈴鹿詣は国道2号線を
走り西宮から名神高速に乗ったとたんに警
察に止められ、まずは叱られたが、少年の
一生懸命さに感心したのか呆れたのか
「有馬温泉にでも浸かって、岡山に帰りな
さい」と諭され、違反切符も切られずに下
道に降ろされただけで難を免れた。
だが、それで諦める博少年ではなく、1号線
をひた走り鈴鹿峠を越え鈴鹿サーキットへ
到着。働いてはいたが懐に余裕があるはず
はなく「もう、時効じゃろ(笑)」というご
本人の了解を得たうえで笑い話として残し
ますが、当時1コーナーのそう遠くない所
にはまだ民家があり、そこの住人が1コー
ナーにフェンスが破れている所があるから
そこからこっそり入りなさい(タダ見という
ヤツ)と教えてくれたうえに、はるばる岡山
から来た熱心さに称賛し、うちで良ければ
と、二晩泊めてくれたという昭和ならでは
の温かさがある旅行記を聞かせていただい
た。
そのころ既に「自分もレースをしたい」
それには勤め人ではなく独立して稼がな
くてはと、行き当たりばったりかと思え
ば計画的な一面もお持ちだったようだ。
もう一つの逸話として、1964年(昭和39
年)5月前出の第一回日本GPに後藤選手が
使ったベンリイレーシングCR93をオカザ
キスピードが買い取ったことから、岡﨑氏
の手が入ったGPマシンと同じく4バルブDO
HCカムギアトレインで1万回転超えまで淀
みなく回るエンジンを載せた現代で云うレ
ーサーレプリカに少年が痺れてしまうのは
自然の摂理で、岡﨑氏の厚意と後のTCエン
ジン開発の礎となる岡﨑理論の答え合わせ
を兼ねた走る実験室として、倉敷児島
田の口で開催されていたダートのローカル
レースに参戦するようになった18歳がレー
サー人生のはじめの一歩じゃったと、
少しはにかんで岩道氏は回想された。